「トレードすることで人とつながりたい」
行動派の独立トレーダー
村田美夏
文: 林 知之
林投資研究所『研究部会報』2014年1月号掲載
今回インタビューした村田美夏氏は、プロとして10数年の実績を持つ独立トレーダーだ。東京大学経済学部をトップで卒業したあと金融業界に入り、現在は自己資金による株式トレードを行うかたわら、起業する若者の支援活動にも積極的にかかわっている。
また国連の経済社会理事会の諮問機関として一般協議資格を持つNGO「BPW」において、日本の組織の代表としても活動しているという、とても興味深い人である。
専業トレーダーというと時間的に余裕があって実にゆったりとした雰囲気の人が多いが、彼女は多くの集まりに顔を出すなど、常に忙しく活動している。仕事で知り合って以降、トレーダーというよりも1人の人間として詳しく話を聞いてみたいと思っていた人物だ。
インタビューは2013年12月11日、林投資研究所のオフィスで行った。
1.長銀の破綻
──美夏さんは、株専門ですよね。株のトレードを始めたきっかけは何ですか?
育った家が、いわば金融一族だったのです。まず、金融機関で働く人がたくさんいました。それに、大企業の財務部の管理職などですね。素晴らしい人たちばかりなのですが、尊敬する親類の1人で母方の祖母の弟は、東京証券取引所に入って専務にまでなり、大納会や大発会で「いよ~っ」って発声する役目を10年間務めていました。
親戚同士の交流は活発で、集まると自然に金融の話題が出ましたし、株の銘柄に関するベタな情報交換もありました。インサイダー情報みたいな暗い話ではなく、一般の銘柄の動向といった、ごく普通に株好きの人の会話でしたね。
私の父も、三菱重工の資金部に勤めていました。だから自宅の書庫には、例えば『転換社債の○○○』とか『連結決算のすべて』といったタイトルの本をはじめ、金融市場、株の取引に関係する実務的な書物がたっぷりとあったんです。輝太郎先生の本も何冊かありましたよ。
とにかく金融取引に対して、情報が豊富でオープンな環境だったんですね。だからでしょうか、もともと株に対してものすごく良いイメージを持っていました。
ある時に伯父が、奥さん(伯母)から冷蔵庫を買い換えたいと言われると、用意した現金で冷蔵庫を買うのではなく、その資金で株の売買をした利益で冷蔵庫を買ったことを覚えています。そんなエピソードが、とてもふつうに伝わってくるような状況だったのです。
そのような環境で育ったせいか自分でも株を取引したいと思い、大学生の時にトレードし始めました。
──軍資金は?
アルバイトに精を出して1,000万円ためました。でも、水商売はしていませんし、違法行為もしていません(笑)。大学にいたのが89年から93年でしたから、学生でも時給の高いアルバイトがありました。だから工夫と頑張りで、効率良く貯金することが可能だったんです。
──それにしても、かなりの頑張りですよね。ちなみに、大学時代の専攻は?
東大の経済学部でトップと称されていた、根岸隆先生の『理論経済学』ゼミにいました。親戚の人たちはみな専門家でしたが、学者のような人はいませんでした。そのせいか、ちょっとアカデミックな観点からも経済を学んでみたいという気持ちがあったのだと思います。
また伯父が日立グループの連結決算書を作成していたので、「決算書は会社を映す鏡なんだ」といった哲学に加えていろいろなことを教えてもらうなど、さまざまな視点から金融を見ることができたので、とても恵まれていたと思います。
──卒業して長銀(注)に入社したんですよね。美夏さんが入社した時には、いわば存続が危ぶまれるくらいの状況だったのでは?
(注)長銀=日本長期信用銀行
吉田茂内閣が打ち出した「金融機関の長短分離」政策に沿って長期資金の安定供給を目的にしていたが、産業・金融構造の変化の中で不動産に対する融資が不良債権化して経営難に陥り、98年の国有化を経て現在の新生銀行になった。
株の取引を続けながら、金融のことをもっと実地で学びたいと考えていたから「金融機関」だったのですが、たしかに長銀は良くない状況でした。でも当時は、女性というだけで就職先の選択肢がかなり限られていたのです。そんな中で長銀は私に対して「ぜひ」と言ってくれたので、求められる場所に行くべきだと考えて決断しました。
でも入社後、「なぜ大学の成績が良かったのに、それほどまで事務仕事ができないんだ?」と言われてしまいました。文章を書くのが苦手でしたし、「しゃべりだけでどうにかなる職種にしてください」と願い出て、上司にあきれられたくらいです(笑)。例えば融資案件が1つあれば、詳細を記した書類を仕上げなければいけないわけですが、そういうのがダメだったんですね。
──それならば、証券会社がよかったのでは?
証券会社だと、大好きな株の売買を制限されてしまうと思ったので……。
──なるほど。で、長銀ではどんな仕事をしたのですか?
最初に配属されたのは、国際部門でした。国内企業向けの外貨建て貸付があったのですが、すでに不良債権化していた部分があり、その処理が強く記憶に残っています。例えば返済が滞って金利も入金されなくなると、払ってもらえない金利に対しても「利息損害金」(利息に対する遅延損害金)というものが発生します。要するに利息にまで利息のようなものがついてしまう、とても厳しい状態ですね。
すると突然、その貸付が「不良債権かどうか」という判断が行われる場合も出てくるのです。担当者としてはそれまで通りの大切なお客様なのに、そんな観点を気にすることになるのですから、仕事とはいえ、助け合うためのつながりなのに……と、非常につらい部分がありました。
そのあとの名古屋支店では、会社の状況が悪化する中で苦戦しました。長銀は大きな金融機関だったので、いわゆる中小企業との取引はありませんでした。しかし私が担当したのはトヨタのような大企業ではなく規模が小さめの地場の優良企業で、貸付や上場のサポートなどが主な業務でしたね。
でもそのころ長銀そのものの格付けが下がったので、市場からの調達金利が上昇してしまいました。要するに信用力が落ちて“仕入値”が高くなったわけですから、適正なスプレッド(金利差)を乗せて貸付に回そうとすると、ほかの金融機関よりも明らかに高くなってしまうんです。それどころか、大手の事業法人のほうが有利に資金調達できるくらいの状態でした。
──ストレートに表現すると、その時点ですでに銀行として機能していなかったわけですね。
そうですね、とても苦しい状況でした。既存の取引先に対しても、まっとうなサービスを提供できなくなっていったわけですから。金融機関の信用力が低下していく姿を内部から見ていたという点では良い経験をしたともいえますが、そのころはお客さんに対しては、とにかく申し訳ないという気持ちばかりでしたね。いくら知恵を絞っても、ごく当たり前の業務が成立しないんです。
──早めに逃げ出した社員も多かったでしょう。
はい、男性社員の一部はそういう行動に出ました。でも、私なんかを拾ってくれる企業はなかったと思います。MBA(注)を持っているとかクオンツ(注)の知識があるとか、そんな特別な能力はありませんでしたから。それに何よりも「悪くなったから辞めちゃう」といった考え方がイヤだったので日々、自分にできることを考えていました。
そして、「ここを乗り切れば……」と歯を食いしばっているときに破綻が確定しました。1998年、私が28歳になる年のことでした。
とても残念でしたが、就職したことを後悔などしていません。そして大学卒業後の5年間は、素晴らしい先輩や同僚に囲まれて仕事に取り組むことのできた時代でした。
(注)MBA
経営管理学修士、Master of Business Administration。
(注)クオンツ
高度な数学や数理モデルを使ったマーケットの分析、投資戦略や金融商品の考案・開発。

左から、村田氏、番組プロデューサー生田氏、筆者
村田氏は、マーケット・スクランブルの放送を行うスタジオに、友だちとして顔を出してくれるので、放送後に近くで一緒に酒を飲んだりしている間柄だ。ベタな相場談議よりも日常のたわいない話のほうが多いのだが、彼女がパソコンを取り出してトレードのことを語り始める機会もある。実に明るくエネルギーに満ちあふれた話しぶりなのだが、別の見方をすると、なんだか“初心者がはしゃいでいる”ように見えるかもしれない。同じプレーヤーとして、確固たる戦略を基に流れを見ながら個々のトレードを振り返る彼女の姿が好きなのだが、たぶん数回会っただけでは、金融一族で英才教育を受けたなどとは想像できないのではないか(失礼)。
詳しく話を聞けば安定して利益を出しているのだと確信できるのに、ポジショントークには真逆のイメージがあるという、なんとも不思議な人なのである。
続いて、長銀の破綻処理後の、トレードを主体とした活動について詳しく聞いた。
─第2回へつづく─
村田美夏(むらた みか)
東京大学経済学部を卒業後、銀行に勤務。その後は独立トレーダーとして活躍。トレードの利益は、エンジェル投資などを通じて社会貢献に充てている。現在は(株)サクセスワイズ代表取締役社長として、社会貢献事業を本格的に進めている。
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