・どうして秀吉は、忠臣官兵衛を疎んじたのか? | 矢口新

━━━━━━━━━━━ Seminar on Trading ━━━━━━━━━━━
    殿堂入りメールマガジン:「相場はあなたの夢をかなえる」
    ☆無料版(参照&登録):https://www.mag2.com/m/0000031054.html
「生き残りのディーリング」の著者による経済と相場の解説(折に触れて)
★有料版(\840税込:購読登録):http://www.mag2.com/m/0001111340.html
まぐまぐ大賞2016:資産運用(予想的中!)第1位(毎週月曜日)
━━━━━━━━━━━━【 Dealer's WEB 】━━━━━━━━━━━━━

・iPad、iPhoneでお読みの方は、上部アドレスバーにある[リーダー]をクリックすると、読みやすくなります。

 

 

☆どうして秀吉は、忠臣官兵衛を疎んじたのか?

豊臣秀吉には両兵衛とも称される兵衛のつく軍師が2人いた。竹中半兵衛と黒田官兵衛だ。両名共に、日本史上最も著名な軍師なので、そうした軍師を2人も抱えていた秀吉が天下を取れたのは当然だと言う人たちがいる。また、そうした卓越した軍師の2人からも主君として仰がれた秀吉の魅力、器量の大きさを見る人たちがいる。

竹中半兵衛(重治)は1579年に34歳で没するが、黒田官兵衛(孝高)は秀吉の天下取りの最大の貢献者となる。ところが、天下取り貢献後は秀吉から冷や飯暮らしに追いやられたとされている。

その理由は、多くの歴史学者やNHKの大河ドラマによれば、主君織田信長の非業の死に際して狼狽していた秀吉に対し、「あなたにチャンスが巡って来た」と耳元で囁いたことにあるとされている。

この冷静で的を射た助言は、主君である秀吉の死後には、官兵衛にチャンスが巡ってきたと、秀吉の子孫から天下を奪い取る懸念をかき立てる。それで、秀吉は官兵衛を疎んじるようになったとの解釈だ。


なぜ、このような話題を取り上げるのか? 私の相場の見方、世界観と相容れないからだ。相場でも特定の個人がどう思っているか、市場参加者がどう思っているかのセンチメントが強調されるきらいがある。

しかし、多くの場合は環境が特定の個人の動向や市場センチメントを決定づけている。

例えば、日銀の黒田東彦総裁は、「日本がデフレなのは、人々のマインドがそうだったから。インフレには将来物価が上がるというマインドが必要だ」と言い続けてきた。

しかし、実際にインフレをもたらした主因はマインドではなく、モノとのバランス、経済成長とのバランスをはるかに凌駕する資金供給だ。モノの価値を貨幣で測るのが物価である以上、モノの量を大きく超える資金供給量は、いずれは物価上昇(=貨幣価値低下)を生むのだ。

その時、増えた資金がすべてに平等に行き渡れば問題ないが、一部の国や人、モノに偏ると、貧富の格差の拡大や、バブルに繋がることになる。

また、1989年以降の日本経済の減速、1997年以降の停滞を、日本人の性質や慣習のせいにする人たちは多いが、それでは1989年までの日本の高成長の理由が説明できなくなる。

歴史上の人物や芸術家などを含め、個人の感情を推し量ることは簡単ではない。自分の目を通して他人の心を推し量ることはしばしば勘違いで終わる。目に見えている環境を分析する方がはるかに容易で、より確実なことが多いのだ。


官兵衛が「あなたにチャンスが巡って来た」と耳元で囁いたのはフィクションである可能性が高い。危機(チャンス)発生時の大名と軍師との会話を誰かが記録していた可能性はまずない。仮に、秀吉か官兵衛がそのような手記を残していたとしても、それは官兵衛を遠ざけた本当の理由を、世間や後世に当たり障りのない理由に挿げ替えた可能性が高いとさえいえるのだ。

そこで、私の見方を裏付けるために、歴史上の事実を振り返って見る。


官兵衛が秀吉に助言した備中大返しは、1582年のことだ。それが秀吉の天下取りの転機となった。その後、官兵衛は本当に冷遇されたのだろうか?

1583年、秀吉が柴田勝家との跡目争いに勝利。

1584年、官兵衛は播磨国宍粟郡を与えられ5万石の大名に。

1585年、官兵衛は宇喜多秀家軍に軍監として加わり、長宗我部軍を撤退・降伏させた。この頃に、官兵衛は高山右近や蒲生氏郷らの勧めによってキリスト教に入信し、「シメオン」の洗礼名を与えられている。

1586年、官兵衛は従五位下・勘解由次官に叙任された。10月、大友宗麟の要請による九州征伐では、毛利氏などを含む軍勢の軍監として豊前国に上陸し、長野鎮辰の馬ヶ岳城他、時枝鎮継の時枝城などを収容。宇留津城、香春岳城などを陥落させる。

1587年、官兵衛は豊臣秀長の日向方面陣営の先鋒を務めて南下し、島津義久の軍勢と戦い、戦勝に貢献している。戦後は石田三成と共に博多の復興を監督している。7月、馬ヶ岳城をはじめとする豊前国の中の6郡(ただし宇佐郡半郡は大友吉統領)、およそ12万石(太閤検地後17万石以上)を与えられ、中津城の築城を開始。

1589年、家督を嫡男の長政に譲り、官兵衛は秀吉の側近として引き続き仕える。中津城はほとんど長政に任せ、官兵衛は猪熊、伏見の京屋敷や天満の大坂屋敷を拠点とする。

1590年の小田原征伐で、官兵衛は北条氏政・氏直父子を小田原城に入って説得し、無血開城させる功績を立てた。秀吉は中津で留守居役をしていた長政に宛てた7月10日付の朱印状にて「小田原の儀、北条一類首を刎ねられ、御本意残所なく仰せ付けられ候、今度の首尾、勘解由、渕底候条、委曲申し遣わすべく候」と、官兵衛の活躍により戦いは終結したと、功績を称えている。この時、北条氏直から名刀「日光一文字」などの家宝を与えられている。

1592年からの文禄の役では、官兵衛は総大将・宇喜多秀家の軍監として参加したが、加藤清正、小西行長などの暴走で思ったような指揮を執れず、病を理由に帰国した。

1593年、官兵衛は再び朝鮮に渡ったが、秀吉が画策した晋州城攻略計画に反対して石田三成、増田長盛らと対立し、秀吉を直接説得するため、5月に東莱城より名護屋城へ帰国したといわれる(『フロイス日本史』)。しかし、秀吉からは軍令に従わずに戦線を離脱したと見なされ、朝鮮に追い返されている(『益田孝氏所蔵文書』)。秀吉への拝謁も許されないまま朝鮮に戻った官兵衛は長政の拠る機張城に赴く。

同年6月の第二次晋州城攻防戦においての後藤基次らが用いた亀甲車の設計や、和式城郭の縄張りなどに携わっている。8月、剃髪して「如水軒円清」と号し、死罪を覚悟して長政らに遺書を残していたが、秀吉によって赦免されている。

参照:黒田孝高(通称:黒田官兵衛、剃髪後の号:黒田如水)


戦線離脱の叱責以外でことさら冷遇されたという形跡は見当たらない。

それにしても、備中大返しから始まり小田原征伐で終る秀吉の天下取りの、最初から最後まで最も貢献したにしては、五大老五奉行にもなれず、離れることもできず、飼い殺しに近い扱いだったと言えるかも知れない。秀吉は自分の後の天下取りは「黒田官兵衛」だと見なしていたとされているので、五大老五奉行には能力不足というより、権力を伴う重役には就かせたくなかったのかも知れない。

しかし、そうした秀吉個人の思惑などではなく、当時の世界を取り巻く環境から見れば、秀吉が卓越した軍師官兵衛に大きな権力を与えなかったことは十分に納得がいくことなのだ。


当時は、キリスト教が世界中に進出して異教徒を啓蒙していた時代だ。1549年に来日したフランシスコ・ザビエルは当初より世界宣教をテーマにしていたイエズス会の創設メンバーの1人で、インドや日本への派遣はポルトガル王ジョアン3世の依頼によるものとされている。当時の西欧諸国はキリスト教と一体化して植民地政策を進めていたのだ。

イエズス会の世界宣教と植民地化は、ほぼ同一のことを意味していたといえる。

同じ頃、1534年にイングランドでは英国国教会が成立する。教会の首長は英国王だ。直接の設立動機はヘンリー8世の離婚問題で、ローマ法王から破門されかけたからだ。そこで、カトリック教会の教義自体は否定せずに分裂したが、「国民は2人の主君に同時に忠義を尽くすことはできない」として、ローマ法王への忠義を否定した。

信長も、秀吉も、徳川家康も、当初は宣教師たちと密に接触していながら、後に迫害に転じたのはそのためだ。キリスト教徒の主君は信長でも、秀吉でも、家康でもなく、イエス様だったからだ。

神様が主君であることには問題がないかも知れない。しかし、キリスト教を含め多くの宗教では法王や教祖が神様に成り代わって人を裁く。そして植民地化では、宣教師たちが現地の支配者と戦って命を落とすことは、天国への近道だとして教徒たちを駆り立てるのだ。

今でもイスラム過激派のジハーディストの現地の司令官は、自身の命令は神の意志だとして、現地の支配者として振舞っている。この映画が事実からかけ離れたものだとは思えず、イスラム過激派だけが例外だとは思えない。
参照:禁じられた歌声(字幕版)


1585年、官兵衛は高山右近や蒲生氏郷らの勧めによってキリスト教に入信し、「シメオン」の洗礼名を与えられている。これが、秀吉が最大の功労者官兵衛に大きな権力を与えなかった最も大きな理由だと考えていい。

当時の世界は世界宣教と植民地化を狙うキリスト教西欧諸国と、現地の支配者たちの戦いの時代だ。宣教師たちは現地司令官に等しく、キリシタン大名は彼らの有力な協力者だった。日本が西欧の植民地にされなかった世界での数少ない例外となれたのは、信長、秀吉、家康らが「国民は2人の主君に同時に忠義を尽くすことはできない」ことを理解していたからではないか?

ちなみに、官兵衛の息子黒田長政は秀吉の死去は家康に仕え、福岡藩52万3千余石の初代藩主となった。また、父親の葬儀はキリスト教カトリック式、及び仏式で行ったとされる。

長政は父親の影響で「ダミアン」という洗礼名を得ている。しかし、後に棄教し、迫害者に転じたと言われている。

 

 

 

・Book Guide:What has made Japan’s economy stagnant for more than 30 years?/ How to protect the pension and medical care systems (Arata Yaguchi: Paperback)

・Book Guide:What has made Japan’s economy stagnant for more than 30 years?/ How to protect the pension and medical care systems (Arata Yaguchi: Kindle Edition)

 

・Quiz Book:What has made Japan’s economy stagnant for more than 30 years?: 57 questions to reveal the problems of the Japanese economy (Arata Yaguchi: Kindle Edition)

 

・著書案内:日本が幸せになれるシステム: グラフで学ぶ、年金・医療制度の守り方(著者:矢口 新、ペーパーバック版)

 

・著書案内:日本が幸せになれるシステム・65のグラフデータで学ぶ、年金・医療制度の守り方(著者:矢口 新、Kindle Edition)
 

・著書案内:日本が幸せになれるシステム問題集・日本経済の病巣を明らかにするための57問(著者:矢口 新、Kindle Edition)




---------------------- Seminar on Trading ---------------------
         毎日、数行! マーケット情報で学ぶ経済英語!
    ☆無料(参照&登録):https://www.mag2.com/m/0000142830.html
一週間のまとめはブログでも読めます:https://ameblo.jp/dealersweb-inc/
------------------------【 Dealer's WEB 】-----------------------

 

 

 

☆【投資の学校プレミアム


☆「矢口新の短期トレード教室」
転換点を見極め、利益を残す方法を学ぶ
http://www.tradersshop.com/bin/showprod?c=9784775991541

ブログ一覧に戻る